気付いたら、あっという間に第一の書が終了。

サブテキストからの引用が少なくなった分、『魂の光』が理解しやすくなった気がしますが、ブログを書くのは一苦労。

1日講座を受講すると、終了時点でお腹がいっぱいなので、やっと終わった~!という開放感からブログを書く気にはなれず、でも、それを続けているとどんどん溜まっていくので、遅ればせながらなんとかメモしていきます。

そして、これまでは「前回までの復習」という出だしでまとめていましたが、それができるのも量が少ない最初だけでした。

第一の書 スートラ30~40、41~51

いきなり話は反れますが、前回(一昨年)は全体的な流れもまるでわかっていなかったのですが、今年はやっと第一の書の流れがおおまかに把握できました。

急に、なんてわかりやすい構成だったのかと思いました。

そして、また急にわからないことも浮かびあがってきます。

「チッタ」について。

主なヨーガ・スートラの解説書では、チッタ=心と表現されていますが、『魂の光』では、チッタ=マインド・スタッフです。

いまさら、え?!と自分に驚き、今までのところは本当に理解できていたのかな?と一瞬思いましたが、そもそも理解なんてほとんどできていないので心配いりませんでした。あはは。

むしろ今の時点で気が付いて良かったかな?

あと余談ですが、ある日考え事をしていて「あ~なんだ」と思った後に、アスミタという言葉が自動的についてきました。

サマーディ―に至る瞑想の段階で、1.ヴィタルカ、2.ヴィチャーラ、3.アーナンダ、4.アスミタの4つがあり、これら4つを合わせたのがサンプラッニャータ・サマーディなのですが、アーナンダ、アスミタのくだりが意識に刷り込まれていたのかと思うと、急におかしくなりました。

ちなみに、アーナンダとアスミタがなんのことだかわかっていないし、読んでもよくわかりませんが、次回(再来年)はきっと理解できるようになると期待したいと思います。

話を戻しますが、神尾先生がまとめてくれた要約資料がすばらしくて、それは『魂の光』の元の構成が素晴らしいということでもあるのですが、講座を受講しているときは見る余裕のない資料ですが、復習にはかなりお役立ちでした。

対応関係と位置づけ。

これはいつ何時でも重要な考え方になります。

物事を考えるとき、見るときに、対応関係と位置づけを構造的に把握する方法がいかに理解を深めるかがよくわかるようになりました。

秘教を学ぶ方たちと話しているとき、よく出てくるのが「段階」とか「界層」です。

3様相的な見方はもちろん、まず物事を見極める手段としてそれはどこの界層かという構造的な視点を持っていることがわかります。

それに付随して、物事の対応関係も自然と頭の中に描かれているように思います。

またここで付け加えたいのが、スピ系の中でも本質的な部分に興味がある方たちは、「今、目の前に起きた現象を見させられている自分」という意識で物事を捉えているとき、感情ではなくマインドを使っており、この時の意識状態は、情緒的な執着を感じないのです。

お客様の話を聞いているとき、
感情的にならず、淡々と現象について内観していく場合と、
感情的になって今の状況に苦しんだり飲みこまれている場合とでは、
意識の界層がまったく違います。

故に、当然、こちらの対応も変わります。

感情に飲み込まれている場合は、施術も対話もアストラル体の浄化をメインとします。

そして、カウンセリングの間は、私もその感情にある程度一緒に飲み込まれます。

ただし、施術中や帰られた後はそれらを自然と切り離してマインドを使って把握しています。

その飲み込まれている状態が、共感として作用しているのですね。

先日常連のお客様に言われたのが、
「そりゃあ明子さんはプロだから、ネガティブな話をいくら聞いても大丈夫だけど、普通の方は抱えきれなかったり一緒に落ち込んだりして、疲れちゃうから無理ですよ」
と言われて、あ~なんだ、アスミタ・・・と気付きました。

これは自然に行っていたのですが、 私、セラピストに向いてるんだなと思いました。

例えばここで、頭の回転が速く、感情に対して冷静に対話をして行ける場合には共感力が不足しますし、ただ感情を受け取るだけでマインドを使えないと、もらい続けて疲弊していくのかなと。

ま、そんな極端なことばかりでもないでしょうけど。

この微妙なラインが、秘教とアートマをやっているバランスからも見て取れるし、「感性派か知性派か」という問いにもどっちつかずな自分をよく表しているなと思います。

今日は話題が完全に自分の話にすり替わってしまいましたが、そういう流れなのでこれでおしまい。

復習する余裕があったら、後日書き足したいと思います。

まあとにかく魂とつながりたいなら瞑想ですよ、瞑想。