秘教講座の第4回目のテーマは、輪廻転生と死を考えるという内容です。

私は、輪廻転生を昔から信じていて、だから、生まれることと死ぬことは、循環している流れの中の一つの通過点だと思っています。

魂にとって生と死は何千回(?)も訪れるもので、パーソナリティー的な喜びや悲しみは今生きている感覚としてもちろんありますが、どちらかというと生まれることは良いこと、死ぬことは悪いことというイメージはありません。

またそれは、私自身が、身近な人の死を経験していないからかもしれません。

大切な人が急にいなくなることはもちろん想像しただけで悲しいです。

でも、いつか死ぬことはわかっているのです。

だから、それほど悲観することではないと、今は思っています。

数年前に祖父母が亡くなったとき、離れて暮らしている期間が長かったからか、正直まったく悲しくなかったのです。

葬儀でもまったく涙が出ませんでした。

唯一、火葬するときの扉を閉める瞬間だけはいつも胸が詰まりますが、お骨になって出てきたときには逆に感慨深い気持ちになります。

講座を受講している方々の話を聞くと、死んだらその後どうなるのか不安だという方が何名かいらっしゃったのですが、私はそれはあまり考えたことがありませんでした。

死んだ後のことまで想像していないというか、生きてるときのが辛いものだと思っているからか。

それよりも、周りの大切な人が亡くなったとき、自分は正気を保てるのか、悲しみに暮れて生きていくのだろうか、という心配があり、それというのは、逆に考えると死ぬことよりも自分が生きていることに対する恐怖なのではないかと思いました。

昔から、生きてる間はつらいことがたくさんあるけど、死んだら楽になるのではないかと漠然と思っていた気がします。

秘教での「死」は、魂の観点から見た「パーソナリティーの死」についてです。

以前の私は、パーソナリティー的な観点からしか物事を考えていませんでしたが、秘教の観点は壮大です。

魂からの視点での死とは、いったいどういうものでしょうか。

魂から見たパーソナリティーの死は、肉体という鎧からの解放です。

魂としては、やっと肉体から脱出できた喜びの瞬間と言えます。

だから、魂にとって「人間としてこの世に生まれた」ことは、肉体という牢獄に閉じ込められて出てきたということになります。

魂にとっては苦しい人生の始まりです。

そう考えると、私が昔から感じていた、生きていることはつらいことで、死んだら楽になるのではないかという思いは、魂の記憶?によるものでしょうか。

私たちのパーソナリティーの意識がいわゆる常識だとすると、魂から見た観点は真逆の見方になります。

パーソナリティーの意識だと、生まれることは喜びで、死ぬことは悲しいことだと思われがちですが、魂の観点だと、生まれることは牢獄で、死ぬことは解放です。

泣きながらこの世に生まれてくることも、なんだか分かる気がします。

真実は1つで、それをどこから見るかで色んな面が見えますが、良い悪い、正しい間違い、という二元論的な考え方でいくと、物事は良くも悪くもあり、正しくも間違いでもあると言えます。

私たちの意識が、良いとか悪いとか決めているだけ、正しいとか間違いだとか思っているだけですね。

そうすると、物事をどういう立ち位置で、どのように捉えるかというのは、重要な観点になります。

立ち位置によって見方(見え方も)が変わるということは、多くの人が同じ事実を見ても、違う部分(階層)を捉えているとも言え、そうすると話が噛み合わないなんて当たり前ですね。

また、私は終わりが好きです。

だから、魂は永遠に続くとしても、今生きている一生は終わりがあると思うからなんとかやってられるのです。

今の人生が永遠と続き、何千年も何万年も私のままだったら、それこそ牢獄のようだと思います。

私は「1」に付随する単位が好きで、例えば、一日、一週間、一か月、一年、一生など、「1」という数字は区切りだと言えます。

私は終わりの見えないことにある意味恐怖を感じます。

終わりがあるから、今が美しいのです。

1日の終わりには、ああ、今日も終わり。明日が楽しみだな。

1週間の終わりには、やっと今週が終わった。明日からは新しい1週間が始まる。

一か月の終わりにも、一年の終わりにも、一旦終わって、新たな始まりがとても楽しみで大好きです。

そう考えると、一生が終わるときも、ああ、やっと人生が終わる、次はどんな人生になるのか楽しみだなと思いながら死ぬような気がします。

そして、よく考えてみたら、私はすでに今の人生に大変満足しています。

やり残したことがない。

好きなことをして、大好きな人と共に生き、好きなものに囲まれて生きている。

そう考えたら急に涙が出そうになる。今、わたしは素晴らしい人生を経験させてもらっているのかもしれない。

やりたいことをやって、人の役に立ち、感謝され、満たされている。

それも秘教の学びや視点があるからこそ、そう思えるようになったのかもしれない。

10年前、四柱推命の先生にみてもらったとき、今までは大変なこともあったかもしれないけど、この先はいいことしかないわよ、何も心配いらない。と言われたことを思い出しました。

本質的なことを学び、もっと人の役に立てたら、さらに素晴らしい人生になるとしか考えられない。