魂の光 3
いや~、今回は先生が絶好調で(?)、途中でついていけず脱落しました。
最初は頑張ってついて行ってたのですが、集中力が切れてからは、「とりあえず最後まで聞くこと」が目的となり、なんだかぼんやりした回になりました。
あと、第3回目は、向井田みおさんのサマーディ―の解説部分で、カタカナがいっぱい出てきて、2年前についていけなくなったことを思い出しました。
でも、以前よりは聞いたことがある分、少しは理解が進んだかな。
ここで個別の細かいところ(カタカナ)に気を取られず、『魂の光』に焦点を当てて全体をまとめておきたいと思います。
これまでの復習
純粋意識=見るものこそが自分であって、心が自分だと思っているのは大きな錯覚です。
感情を静め、マインドを静める。
『魂の光』の特徴は、この感情とマインドを分けたところ。
マインドの状態には5種類ある。これもマインドとサイキック性質を分けて考える。
チッタのブリッディをニローダする
→6~11たゆみない努力(アビヤーサ)と無執着(ヴァイラーギャ)をすることによってサマーディ―が表れてくる。
第2ロゴスから発生するエレメンタルの向かう方向と、私たちが進化していく第1ロゴスへの方向は逆なので、エレメンタルが暴れ出す。
瞑想するとき、集中できないのはエレメンタルが暴れているからと考えられる。
誤った知識→誤った対象に対する知識。パーソナリティーに意識を向けない。
そこを抜けた段階が、魂・エゴ・コーザル体。=正しい知識。
でも、正しい知識もまだチッタのブリッディなので克服しないといけない。
そこの隙間をつなげるのがアンターカラナ。
アンターカラナをつなぐには瞑想が必要であり、その結果達成されるのがサマーディ―。
第3回『魂の光』第 一 の書17~22
サマーディ―には段階があって、スートラ17と18では、サマーディ―に到達とあるが、達成されるのはサマーディ―ではなく瞑想。
17は有想三昧、種子つまり対象のある瞑想で、
次の段階18は無想三昧、種子のない瞑想つまり肉体脳が対象として認めるものがない瞑想。
また、ラージャ・ヨギたちの辿る道筋と、バクティ、献身家、聖者が辿る道筋が示されています。
それと、人間が目標(霊的生命の知識と解放)に到達するための道も二つ示されています。
1つは、パタンジャリが教えるヨガの道、もう一つは純粋な献身の道。
純粋な献身の道とは、バクティのこと。
グルジもおっしゃるように純粋献身コースは、パタンジャリコースよりもはるかに抵抗が少ない道。
バクティの山の方が全然楽だと言われても、なぜか険しい道に魅かれる私。
でも、秘教を学んでいる方たちの多くは、結局今回はパタンジャリコースなんだと思います。
知識欲が旺盛なマインドタイプというか、ある意味、知性がドMというか、これがオカルティストの道なのでしょうか。
そうはいっても、オカルティストも献身家も最終的には統合されるから、表裏一体で、今現在どちらを進んでいてもゴールは一緒。
私はどっちのタイプかな?というよりも、今目の前にあるものや、自分の意志と意図に従って生きるだけでいい。
第3回『魂の光』第 一 の書 23~29
イシュヴァラへの献身。
イシュヴァラは太陽を通して顕現している子であり、私たち一人ひとりのハートの中で輝いている神の子、宇宙キリストである。
イシュヴァラへの強烈な献身と愛を通して魂に接触し、それを知ることができるとあります。
スートラ23の後半で、先ほど書いたように献身家とオカルティストは、それぞれの道に達した後、別の道を歩まねばならず、どちらも等しく神聖であると表現されています。かなり端折ったけど、どちらも大切だし必要ということ。
スートラ25にある大宇宙と小宇宙の対比の表から、苦手なカタカナをメモ。
グルデヴァ・・・すべてを支配する者
輝くアウゴエイダス・・・内なる光
何度読んでも覚えられません。
スートラ26の弟子の例が個人的にはツボで、小学生の頃、国語の教科書に載っていた『大きなかぶ』を思い出します。
スートラ23~28では魂とのつながりを強化することについて述べられていました。
それと、オームの3様相の解説が面白かったのと、『魂の光』を通してアートマ・クリヤ・ヨーガの見解を神尾先生から聞けるのは、個人的に超スペシャルでツボです。
しかも、自分考えて意図したり想像したことが、先生と同じ見解だったりすると、自分の行うセラピーの構造的な裏付けが進み、よっしゃ~!と心が弾みます。